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ゆかりの人物紹介

平時子(二位の尼)平知盛源義経安徳天皇毛利秀元宮本武蔵佐々木小次郎永富独嘯庵
田上菊舎シーボルト白石正一郎狩野芳崖印藤聿(豊永長吉)三吉慎蔵坂本龍馬高杉晋作
伊藤博文谷梅処(おうの)中山忠光乃木希典高島北海滝川辯三種田山頭火藤原義江二村定一
金子みすゞ
林芙美子愛新覚羅溥傑、浩田中絹代松本清張香月泰男木暮実千代松田優作


平時子(二位の尼)

平時子(二位の尼)

たいら の ときこ(にいのあま)/ 1126-1185


平清盛の妻、安徳天皇の祖母。全盛を誇っていた平家は、清盛の死後次第に衰退し、木曾義仲に都を追われた後は、安徳天皇を擁して屋島、壇ノ浦へと逃れました。壇ノ浦の合戦で平家が敗れたため、二位の尼は安徳天皇を抱き、「浪(なみ)の下にも都があります」と語りかけ入水しました。関門海峡そばの赤間神宮は、安徳天皇を祀っており、境内には安徳天皇阿弥陀寺陵や鮮やかな朱塗りの竜宮城を思わせる水天門があります。

安徳天皇入水像の碑:みもすそ川別館敷地内

平知盛

平知盛

たいら の とももり/ 1152-1185


平清盛と時子(二位の尼)の間に生まれた四男、平家一門きっての武勇をうたわれました。養和元年(1181)清盛が亡くなった後、平家は急速に衰え木曾義仲に敗れ都落ちをした後は、一ノ谷、屋島と敗走を続け、関門海峡の壇ノ浦で最後の決戦を迎えました。彦島に本陣を置く平家と源義経率いる源氏は狭い関門海峡で戦い、潮の流れを利用した源軍が勝利し、平家の最期を見届けた知盛は敗北の責任をとって入水しました。

モデルコース:源平コース

源義経

源義経

みなもと の よしつね/ 1159-1189


源頼朝の弟、幼名・牛若丸。義経は、源軍の大将として一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で勝利し平家を滅ぼしました。源平最後の戦となった壇ノ浦の合戦では彦島に本陣を置く平家と狭い関門海峡で戦をし、潮の流れを利用した源軍が勝利しました。その後、兄・頼朝と対立した義経は奥州の平泉へ藤原氏を頼って逃れましたが藤原泰衡に襲われ平泉で自刃しました。

モデルコース:源平コース

安徳天皇

安徳天皇

あんとくてんのう/ 1178-1185


平清盛の娘・徳子と高倉天皇の間に生まれ3歳で天皇に即位しました。木曾義仲に都を追われた平家は、安徳天皇を擁して屋島、壇ノ浦へと逃れ、壇ノ浦の合戦で平家が敗れたため、安徳天皇はわずか8歳で二位の尼に抱かれて入水しました。関門海峡そばの赤間神宮は、安徳天皇を祀っており、境内には安徳天皇阿弥陀寺陵や鮮やかな朱塗りの竜宮城を思わせる水天門があります。

安徳天皇陵:赤間神宮
安徳天皇入水像の碑:みもすそ川別館敷地内

毛利秀元

毛利秀元

もうり ひでもと/ 1579-1650


長府藩初代藩主。毛利元就の四男穂田元清の子として岡山県の猿懸城に生まれました。天正12年(1584)、本家の毛利輝元の養子となりましたが、輝元に実子秀就が生まれると、秀元は長門、周防を分封されて山口の長山に城を築きました。1600年、豊臣方に加担した関ヶ原の戦い後、毛利藩は減封を受け、その領土が防長二国となり、秀元は豊浦、厚狭の二郡を与えられ、その居城は長府の串崎に移されました。しかし元和元年(1615)、幕府の一国一城令により串崎城は取り壊されました。この移住により、長府は近世城下町として発達していきました。

画像:長府毛利家所蔵/下関市立歴史博物館管理
ゆかりの地:城下町長府
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)
墓所:功山寺

宮本武蔵

宮本武蔵

みやもと むさし/1584-1645


岡山県美作市(旧大原町)に生まれたといわれています。武蔵は「五輪書」に「私は幼い頃から兵法を学び、13歳のころに初めて試合をして打ち勝ち、その後、29歳までに60回余り兵法者と闘い一度も敗れたことは無い‥‥‥」と書いています。慶長17年(1612)4月13日に関門海峡に浮かぶ小島・巌流島(舟島)で佐々木小次郎(巌流)と決闘し勝者となりました。巌流島の決闘後は、大阪冬の陣、島原の乱に出陣。寛永17年(1640)に熊本藩主細川忠利に招かれ客分扱いとなり、この地で生涯を閉じました。この間、「五輪書」、「独行道」を執筆。絵画にも優れた才能を発揮し「芦雁図」、「野鴨図」などの作品があります。

ゆかりの地:巌流島

佐々木小次郎

佐々木小次郎

ささき こじろう/  ? -1612


小次郎の生涯については歴史的資料が少なく謎に包まれおり、福井県越前市(旧今立町)に生まれたとされていますが、他の説もあります。武者修行のため各地を回った後、小倉藩の剣術師範をしていましたが、慶長17年(1612)4月13日に宮本武蔵と巌流島で決闘し敗れました。決闘の場となった関門海峡に浮かぶ小さなこの島は、正しくは舟島ですが、武蔵との決闘で敗れた巌流(小次郎)の名をとって巌流島と呼ばれています。現在、島は広場や散策道などが整備されており、唐戸桟橋から船で渡ることができます。

ゆかりの地:巌流島

永富独嘯庵

ながどみ どくしょうあん/ 1732-1766


庄屋勝原治左衛門の三男として下関市の王司に生まれました。12歳の頃、病にかかり医師永富友庵の診療を受けたことが縁となって、永富家の養子となりました。その後、医学や儒学を学び漢方医学と蘭医学を総合した独自の医学の編成に取り組みました。また、製糖の技術改良にも力を注ぎ、品質の優れた砂糖を精製したことでも知られています。

永富独嘯庵の顕彰碑:王司上町
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

田上菊舎

たがみ きくしゃ/ 1753-1826


長府藩士田上由永の長女として豊北町田耕に生まれた田上菊舎は、江戸後期、加賀の千代女と並び称された女流俳人です。夫と死別したあと、28歳で出家し、俳諧の道を求める修行の旅に出ました。江戸、京都、北陸、九州を巡り、走破した距離は27,000kmにも及ぶといわれています。晩年は長府に住み、この地で没しました。長府本覚寺の墓石に辞世の句「無量寿の宝の山や錦時」があります。よく知られている句には京都府宇治市の万福寺を訪れたときの「山門を出れば日本ぞ茶摘みうた」があります。

句碑:功山寺、本覚寺、徳応寺など
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

シーボルト

しーぼると/ 1796-1866


文政6年(1823)長崎の出島にオランダ商館医として派遣され、翌年には医学教育のための学校、鳴滝塾を開講しました。文政9年(1826)、オランダ商館長の「江戸参府」に同行し、途中下関を訪れ関門海峡を測量。この時、シーボルトと親交のあった本陣伊藤家の当主、伊藤杢之允はオランダ服を着て歓迎したといわれています。シーボルトは、日本に近代西洋医学を伝える一方、ヨーロッパに日本の歴史や文化を紹介し、日本の近代化に貢献しました。

資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

白石正一郎

しらいし しょういちろう/ 1812-1880


回船問屋を営む商人で、高杉晋作をはじめとする維新の志士たちを物心両面から支援しました。奇兵隊は文久3年(1863)6月8日に白石邸を本拠として結成され、自らも隊士として奇兵隊を支えました。晋作の死後は一切の俗事から離れ、明治8年からは赤間神宮の宮司となり生涯を終えました。享年68歳。

ゆかりの地:白石正一郎旧宅跡赤間神宮
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

狩野芳崖

狩野芳崖

かのう ほうがい/ 1828-1888


長府藩の御用絵師狩野晴皐の長男として長府に生まれ、江戸に出て狩野(勝川)雅信に絵を学びました。長府に帰郷、幕末維新のころ生活に困窮して上京。長く世に認められませんでしたが、帝国大学で講義をしていたアーネスト・フェノロサに認められ、岡倉天心や橋本雅邦らとともに新しい日本画の創出に力を注ぎ、東京美術学校の創設に努めました。代表作に「悲母観音」があります。

銅像:覚苑寺
作品:下関市立美術館 (常設展はありませんので事前にお問い合わせください)
資料:下関市立歴史博物館 (常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

印藤聿(豊永長吉)

印藤聿(豊永長吉)

いんどう のぶる/ 1831-1911


長府藩士下村又三郎の三男として長府に生まれ、のちに長府藩士印藤吉郎右衛門の養子となりました。聿は長府藩主毛利元周の側近として国事に奔走し、長府藩内では坂本龍馬と最も早く知り合った人物といわれ、龍馬と長府藩のパイプ役となりました。また、龍馬に三吉慎蔵を紹介したのは聿といわれています。明治以降は、豊永長吉と名を改め政財界で活躍しました。

画像:下関市立歴史博物館所蔵
資料:下関市立歴史博物館 (常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

三吉慎蔵

三吉慎蔵

みよし しんぞう/ 1831-1901


長府藩士、槍の名手。薩長同盟成立直後、坂本龍馬と三吉慎蔵は宿泊していた寺田屋で伏見奉行所の捕り方に襲撃され、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで、慎蔵は得意の槍で応戦し、窮地を脱しました。以後、龍馬と慎蔵は篤い友情で結ばれ、龍馬が下関の本陣伊藤家に妻のお龍を預けた際、慎蔵に手紙を送りお龍の後事を託しています。

画像:三吉治敬氏蔵/米熊・慎蔵・龍馬会管理
モデルコース:城下町長府コース
資料:下関市立歴史博物館 (常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

坂本龍馬

坂本龍馬

さかもと りょうま/ 1836-1867


明治維新に影響を与えた幕末の志士。土佐藩脱藩後、貿易会社「亀山社中(海援隊)」を結成し商業活動を行いました。1866年、薩長同盟成立に貢献。その数日後龍馬は護衛役の長府藩士三吉慎蔵と寺田屋で伏見奉行所の捕り方に襲撃され、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで、慎蔵は槍で応戦し窮地を脱しました。小倉戦争ではユニオン号に乗り高杉晋作とともに戦い、また、下関の本陣伊藤家で妻のお龍と生活を送るなど、龍馬と下関は深い関わりをもっています。

画像:三吉治敬氏蔵/米熊・慎蔵・龍馬会管理
モデルコース:坂本龍馬コース
資料:下関市立歴史博物館 (常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

高杉晋作

高杉晋作

たかすぎ しんさく/ 1839-1867


萩藩士高杉小忠太の子として萩に生まれ、17歳の時に吉田松陰が開いた松下村塾に入門。松陰に強い影響を受けました。1863年に外国からの襲撃にそなえるため、豪商白石正一郎邸で「奇兵隊」を結成。翌年には、当時長州藩内の主流であった幕府の威光に従う「俗論党」を倒すため、「遊撃隊」「力士隊」の協力をえて長府の功山寺で挙兵しました。これを機に長州藩を討幕運動の主役へと導きますが、維新実現を目前に病により短い生涯を閉じました。晋作の墓は、奇兵隊ゆかりの地、吉田の清水山に建てられています。

画像:下関市立歴史博物館所蔵
モデルコース:高杉晋作コース
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)、東行記念館

伊藤博文

伊藤博文

いとう ひろぶみ/ 1841-1909


熊毛郡束荷(光市)に林十蔵の長男として生まれ、その後、父十蔵が長州藩士伊藤弥右衛門の養子となったため、伊藤姓を名乗りました。吉田松陰の松下村塾に学んだ後、尊王攘夷運動に加わり、1863年には井上聞多らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡り海軍施設、工場などを見学し見聞を広めましたが、下関戦争の勃発を知り急遽帰国。下関戦争後の講和会議では通訳として加わりました。また長府功山寺の挙兵に「力士隊」を率いて参加するなど、高杉晋作とよく行動を共にしています。明治維新後は初代の内閣総理大臣を務め、その後も三度にわたり総理大臣を務めています。明治28年(1895)に下関の春帆楼で開かれた日清戦争後の講和会議では、陸奥宗光とともに全権大使として李鴻章との間に日清講和条約を結びました。春帆楼は「フグ食用禁止令」を伊藤博文が解禁した「ふぐ料理」の公許第1号店でもあります。

画像:下関市立歴史博物館所蔵
ゆかりの地:春帆楼日清講和記念館
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

谷梅処(おうの)

たに ばいしょ/ 1843-1909


高杉晋作の愛人・おうのが晋作と初めて会ったのは、おうのが20歳、晋作が24歳の頃で、下関の稲荷町に近い花街、裏町の堺屋といわれています。その後、東奔西走する晋作を支え続け、晋作の没後は仏門に入り、梅処尼となって生涯、晋作の眠る東行庵を守りました。

ゆかりの地:東行庵

中山忠光

中山忠光

なかやま ただみつ/ 1845-1864


権大納言中山忠能の子として京都に生まれた忠光は、明治天皇の叔父にあたり、安政5年(1858)14歳のときに侍従となって宮中に仕えました。文久3年(1863)に攘夷戦を目前にした下関を訪れ、豪商白石正一郎邸に滞在して関門海峡の防備を巡視しました。その年には攘夷戦に参加、また、大和に旗あげした討幕軍「天誅組」にその主将となって加わるなど血気に燃える青年公卿の姿がうかがえます。「天誅組」による討幕に失敗した忠光は、その後、再び下関にくだり長府藩の庇護を受けて下関の各地を転々としますが、豊北町田耕で暗殺されました。墓は、綾羅木本町七丁目の中山神社境内にあります。

画像:下関市立歴史博物館所蔵
ゆかりの地:中山神社(綾羅木)中山神社(豊北町)
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

乃木希典

乃木希典

のぎ まれすけ/ 1849-1912


明治の軍人を代表する人物。西南の役・日清戦争・日露戦争に参戦、日露戦争では、旅順要塞の攻略を指揮し、このとき二人の息子を戦で失いました。1912年に、妻と共に明治天皇の死に殉じ、東京赤坂の私邸で自刃しました。長府の乃木神社には希典が少年時代住んでいた家が移築されています。

画像:下関市立歴史博物館所蔵
ゆかりの地・銅像:乃木神社覚苑寺
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

高島北海

たかしま ほっかい/ 1850-1931


明治後期から大正にかけて活躍した画家。萩に生まれ、幼いころから絵に興味を持ち、内務省地理局、農商務省に務めた後52歳で画家として出発することを決意しました。東京で制作活動を続けていましたが、大正12年(1923)の関東大震災直後下関に帰り絵に打ち込みました。作品は山岳や森林を題材にしたものが多く、独自の山水画風を樹立。エミール・ガレなどアール・ヌーヴォー作家との交流はよく知られています。下関市立美術館には約90点の作品が収蔵されています。

作品:下関市立美術館(常設展はありませんので事前にお問い合わせください)
資料:下関市立歴史博物館(常設展示はしていませんので事前にお問い合わせください)

滝川辯三

たきがわ べんぞう/ 1851-1925


長府藩士の子として生まれ、14歳のとき集童場へ入学し乃木希典や桂弥一とともに学びました。日本のマッチ王と呼ばれ、明治の初めにマッチの改良、製造販売の企業化に力を注ぎました。また、兵庫県下のガス・水道・交通事業の開発にも力を注ぎ、兵庫県の重鎮としての役割を果たしました。

滝川辯三彰功の碑:笑山寺
集童場:長府図書館(忌宮神社横)

種田山頭火

種田山頭火

たねだ さんとうか/ 1882-1940


自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人で山口県防府市に生まれました。明治40年(1907)種田酒造場を開業、その後家業に失敗し種田家は破産しました。1924年に仏門に入り、1926年には熊本県植木町の堂守をしていた観音堂を去り、雲水姿で漂泊、放浪の旅に出て、旅先で俳句を詠みました。1932年に川棚に永住しようと決め、奔走しましたが断念し、郷里の山口市小郡の「其中庵」住み、その後松山市の「一草庵」に移り住みこの地で生涯を閉じました。下関を幾度も訪れ、長府で撮った山頭火の後ろ姿の写真と「うしろすがたのしぐれてゆくか」の句はよく知られています。

句碑:長府藩侍屋敷長屋妙青寺カモンワーフなど

藤原義江

藤原義江

ふじわら よしえ/ 1898-1976


下関で貿易商を営んでいた英国人ネール・ブロディ・リードと琵琶芸者坂田キクの間に生まれました。新国劇の俳優を経て世界的オペラ歌手となり、「われらのテナー」の愛称で親しまれました。日本にオペラを根付かせた功労者でもあります。

ゆかりの地:藤原義江記念館(紅葉館)

二村定一

ふたむら ていいち/ 1900-1948


日本の男性流行歌手第一号、二村定一は下関市中之町に生まれました。ジャズソング「テルミー」をレコードに吹き込み、日本ジャズシンガー第一号に。続いて「青空」「アラビアの唄」、流行歌「君恋し」をヒットさせました。エノケン(榎本健一)とのコンビで映画や舞台でも活躍しました。

墓地:引接寺

金子みすゞ

金子みすゞ

かねこ みすず/ 1903-1930


長門市仙崎で生まれた金子みすゞは、大正12年(1923)4月、20歳のときに母の嫁いでいた下関の上山文英堂書店に移り住みました。西之端町にあった同書店の支店で働きながら26歳で亡くなるまでの間に、慈しみと優しさに満ちた多くの童謡詩を生み出しました。

モデルコース:「金子みすゞ詩の小径」コース

林芙美子

林芙美子

はやし ふみこ/ 1903-1951


下関市田中町で生まれた林芙美子は、3歳のときに下関を離れ、行商人の養父の仕事の関係で、九州各地を転々とし、小学校1年生の時に下関へ帰り、4年生の2学期まで名池小学校で過ごしました。尾道市の市立尾道高女を卒業後上京し様々な職業を経験、昭和3年「放浪記」で人気作家となりました。自伝的作品の「放浪記」に、「私が生まれたのはその下関の町である」と書かれています。その後、「浮雲」「清貧の書」など多くの作品を発表。昭和26年(1951)48歳で急逝しました。

モデルコース:近代先人コース

愛新覚羅溥傑、愛新覚羅浩

愛新覚羅溥傑、愛新覚羅浩

あいしんかくら ふけつ、あいしんかくら ひろ/ 1907-1994、1914-1987


清朝最後の皇帝の弟、溥傑の妻浩は、中山忠光の曾孫にあたります。歴史に翻弄された二人ですが、戦後は日中国交回復と友好に尽くしました。浩妃は昭和62年(1987)6月20日、溥傑殿下に看取られながら波乱の人生を閉じました。溥傑は7年後の平成5年(1994)に北京で亡くなりました。二人の遺骨は溥傑の生前からの希望により、娘彗生の遺骨とともに日中双方によって分骨され、浩妃の曾祖父中山忠光卿を祀る中山神社境内にある摂社愛新覚羅社に納められ、中国側は3人の遺骨を妙峰山の上空で散骨しました。

ゆかりの地:愛新覚羅社(中山神社境内)

田中絹代

田中絹代

たなか きぬよ/ 1909-1977


日本映画の黎明期を代表する女優・田中絹代は下関市丸山町で生まれました。7歳のときに大阪へ引越し琵琶少女歌劇団に入団。14歳で映画界に入り昭和13年(1938)、28歳で主演した「愛染かつら」が空前の大ヒットとなります。その他にも晩年には「三婆」「サンダカン八番娼館・望郷」で老いの人生を演じ、ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞銀熊賞を受賞しました。また日本で2人目の女性映画監督でもあります。

資料:田中絹代ぶんか館(2階が田中絹代記念館)

松本清張

松本清張

まつもと せいちょう/ 1909-1992


福岡県企救郡板櫃村(現、北九州市小倉北区)で生まれた松本清張は、1歳のときに一家で祖父母を頼って下関市旧壇ノ浦(現、みもすそ川町みもすそ川公園付近)に移り住み、そして4歳のとき一家は上田中町(新町4丁目バス停付近)に移ります。その後、北九州市小倉に転居しています。「半生の記」に、「町の中にガラスの工場があり、職人が長い鉄棒の先にほおずきのような赤いガラス玉を吹いていた風景は忘れられない」と、下関時代を記述しています。

文学碑:みもすそ川公園

香月泰男

かづき やすお/ 1911-1974


大津郡三隅町(現長門市)生まれ。東京美術学校卒業後、北海道の中学校で美術教師を務め昭和13年から5年間、下関高等女学校(現下関南高等学校)に勤務しました。昭和17年に召集令状を受け取り、翌年入隊。敗戦とともにシベリアで2年間抑留され、帰国後、下関高等女学校に復職しました。シベリアでの体験を描いた「シベリア・シリーズ」は有名ですが、故郷の風景も多く描いています。下関市立美術館には約210点の作品が収蔵されています。

作品:下関市立美術館(常設展はありませんので、事前にお問い合わせください)

木暮実千代

こぐれ みちよ/ 1918-1990


下関彦島生まれ。日本大学芸術科在学中に松竹映画に出演し、そのまま映画界入りしました。「青い山脈」で毎日映画コンクール助演演技賞を受賞、スターの地位を不動のものとし300本以上の映画に出演しました。また、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、全国各地で保護司として講演したほか、ボランティア活動にも熱心に取り組みました。

松田優作

まつだ ゆうさく/ 1949-1989


下関市生まれ。’73「太陽にほえろ」でデビュー。アクションスターとして、演技派として多くの映画主演をこなしました。「家族ゲーム」で数々の映画賞を総ナメにし、映画スターとしての頂点に立ち、’89年「ブラックレイン」でハリウッドデビューを果たしましたが、40歳でガンに倒れました。今なお熱烈なファンが多くいます。